創作について
はじめに
「燈沁」は、炎 を描いた作品ではありません。
このページでは、「燈沁」に込めている想いや、作品が生まれるまでの考え方をご紹介します。
2024年1月から、炎のゆらぎを描く作品を「Flame of Heart」というシリーズ名で制作していました。
制作を続ける中で、私は「やはり、これ以上、自分の思想が詰まった作品はない」「この作品こそ、自分の創作の核だ」と確信しました。
だからこそ、この作品を1つのブランドとして歩ませたい。
そう思い、もっとシンプルで伝えやすい名前を考え始めました。
最初は「心灯」「燈芯」「心炎」などが浮かびました。
しかし、一般的にある言葉や、既に組織などで使われている言葉であったり。
「これだ」と思えるものには、なかなか出会えませんでした。
ただ、その中でも「とうしん」という言葉の響きは、心地よく感じていました。
そして、「しん」の読みを持つ漢字を探している中で、「沁」という字に出会いました。
「沁みる」
この言葉を見た瞬間、
「心を燈で灯す。」
「心に沁みる。」
作品に込めたいこの二つの想いが、1つにつながりました。
「これだ。」
そう思えた瞬間でした。
「燈沁」という名前は、私が考えたというより、自分の想いにぴったりと寄り添う言葉に出会えた感覚でした。
こうして、出会った名前が、「燈沁」です。
炎のゆらぎ を描こうと思ったきっかけは、一枚の作品でした。
F20号で制作した「熱くなれ」という作品です。

この作品を眺めていると、
不思議と胸のあたりに火が灯るような感覚がありました。
そして、気づけば、ずっと見ていたくなる。
公募展でも、「この作品が好きです。」「ずっと見ていられます。」
そう声を掛けてくださる方がいました。
その当時は、この作品が私にとって重要な作品になるとは思いもしませんでした。
その後も、自分だけの表現を探して、いろいろな抽象画を描いていましたが、
同じような表現で何枚か描いてみても「何か違う」
作品ごとにテーマが変わることも「何か違う」
なんだか定まらない感じがしていました。
「私は、何を描けばいいのだろう?」
改めてそう考えたとき、過去の作品を思い返しました。
その時に浮かび上がった作品が、「熱くなれ」だったのです。
当時と同じように、不思議と胸のあたりに火が灯るような、
心地よい感覚がありました。
技法の見せ方や見た目、テーマでもなく、自分の心が動いた作品。
「これだ!」 と思いました。
それから、
炎のような形、炎のゆらぎ を描き始めました。
何を大切にしたいですか。
どう生きたいですか。
今の生活や環境は、本当に自分が望んでいるものなのだろうか。
「こうするべき」でもなく、
「こうしておこう」でもなく、
「こうありたい」と思う自分は、どんな姿なのだろうか。
私にとって「本当の心」とは、
自分が本当に望んでいるあり方。
そして、その本当の心を、自分自身で知ることが大切だと考えています。
人は、人生の大きな選択をするときには、自分がどうしたいのかを考えます。
けれど、立ち止まって「このままでいいのだろうか」と思う瞬間は、必ずしも大きな選択を迫られたときではありません。
ふとした瞬間に、疑問や不安、後悔が浮かんでくる。
そのときには、心や身体が疲れてしまっていることもあると思います。
だからこそ、何かを決めなければならないときだけではなく、何も起きていないときにも、自分はどうありたいのかを見つめることが大切だと私は考えています。
本当の心を知ったからといって、すぐに何かを変えなければならないわけではありません。
今の場所にいることを、自分自身が納得して選んでいるのなら、それもひとつのあり方です。
けれど、もし本当は望んでいるあり方があるのなら、すぐにはそこへ行けなくても、少しずつでも進んでいってほしい。
その方が、我慢し続けるよりも、心が少し楽になることもあると思います。
だから私は、作品を通して答えを伝えたいのではありません。
作品を見て、何かを感じる。
ふと立ち止まる。
少しだけ心が動く。
そこから「自分は本当はどうありたいのだろう」と、自分自身に問いかけることがあるかもしれない。
もちろん、そこまで辿り着かなくてもいい。
ただ、何かを感じ、心が少し動く。
そんな瞬間が生まれることも、作品を届ける意味のひとつだと思っています。
私にとって、ゆらぎとは心地よさです。
ゆらゆらと揺れ動く。
電車に揺られていると、いつの間にか眠くなる。
ブランコに揺られていると、自然と力が抜けていく。
私は、そんなゆらぎに心地よさを感じます。
炎のような形を描き始めたときも、そこにはどこか、揺らめくような感覚がありました。
その形を描いていく中で、なぜ自分は心地よく感じるのだろうと考えました。
そこで、炎のゆらぎについて調べていくと「1/fゆらぎ」と呼ばれるリズムがあることを知りました。
一定ではなく、わずかな変化を繰り返すそのリズムは、自然の中にも見られ、人が心地よさを感じるものとも関係があるとされています。
私が感じていた「心地よさ」を、後から言葉にしてくれたものが、私にとっての「1/fゆらぎ」でした。
そして、私は 炎のゆらぎ を描いています。
「炎のゆらぎ」という言葉を知ることで、作品が何を描いているのかが伝われば、それでいいと思っています。
その炎を見て何を感じるのか。
どんな時間を過ごすのか。
それは、その人自身のものだから。
ただ、作品を眺める時間が、少し穏やかで、心地よいものであれば嬉しく思います。
色を使わないからこそ、見えてくるものがあります。
もともと私は、蝋を使った書道アート「ろう彩Ⓡ書」で、色を使った表現をしていました。
だからこそ、別の作品では色を使わない表現をしてみたいと思いました。
モノクロだからこそできる表現は何だろう。
最初は、自分の考え方や価値観を、モノクロの作品として表現していました。
けれど、作品を作り続ける中で、ふと考えるようになりました。
「自分の考えを伝えることに、作品としてどんな意味があるのだろう。」
人は、自分自身には興味があっても、他人の考え方そのものに興味があるとは思えない。
では、
自分は何を描きたいのか。
何のために作品を作るのか。
そこから考え続けて辿り着いたのが、炎のゆらぎでした。
炎のゆらぎをモノクロで描くことで、色が持つ印象に引っ張られることなく、炎の輪郭や形、ゆらぎそのものを見てもらえる。
そして、その炎の内側には、木の色や木目が現れます。
私はそこに、誰にも染められない、ありのままの自分の心を重ねています。
だから、私にとってモノクロは、単に色を使わないための表現ではありません。
炎のゆらぎ を際立たせ、その内側にある「本当の心」に目を向けてもらうための表現です。
木の色や木目は、木そのものが持つものです。
蝋削画では、蝋を削り落とすことで、隠れていた木の色や木目が現れます。
私は、この素材そのものが見えてくることも、蝋削画の魅力の1つだと思っています。
そして、燈沁では、この木の色に、もう一つの意味があります。
木が木としてもともと持っているもの。
人が、その人自身が持っている、望むあり方。
私は、そこに通じるものを感じています。
蝋を削り落とすことで、炎のゆらぎの中から木の色が浮かび上がる。
私はそこに、どれだけ周りに揺さぶられても、誰にも染められることのない、その人自身の心が現れる姿を重ねています。
人には、自分が本当に望むあり方がある。
それは、自分自身にとって大切なものだと思っています。
だからこそ私は、その大切なものを、作品の中に、炎のゆらぎの中に込めています。
木の色が浮かび上がるように、その人自身の「本当の心」もまた、そこにあり続ける。
そんな姿を、炎のゆらぎの中に残しています。
蝋削画は、最初から木製パネルを使って制作してきました。
蝋削画は、蝋で描き、墨を塗り、描いた蝋を削り落とすことで表現する技法です。
蝋を取り除く方法として一般的なのは、熱を加えて蝋を溶かす方法でした。
でも私は、熱を使わず、蝋をのものを削り落とす方法を試したいと思いました。
そのためには、蝋が染み込まず、表面で固まる素材が必要でした。
生地や紙では蝋が素材に入り込んでしまい、削り落とすかとができません。
そこで選んだのが、木製パネルでした。
もともと、素材そのものの色や質感を見せる表現にも興味があったので、木の色や木目が現れることにも魅力を感じました。
また、木製パネルは額装された作品とは違う、パネルそのものの立体感や存在感も好きでした。
実際にガラスやアクリルなど、ほかの素材も試しましたが、蝋を削った跡が目立ち、思うような表現にはなりませんでした。
そうして制作を続ける中で、木製パネルは単なる「蝋を削るための素材」ではなくなっていきました。
木の色や木目、表面の質感は一枚ごとに異なり、自然なものならではの温かさがあります。
そして、燈沁にとっては、木だからこそ炎のゆらぎが浮かび上がる。
黒との対比によって、木の色が炎の形を自然に浮かび上がらせてくれる。
だから私は、木製パネルを使っています。
蝋削画にとっても、燈沁にとっても、木が一番合う。
木製パネルだからこそ、炎の形だけではなく、木そのものにも目を向けてもらえたらと思っています。
墨に覆われた部分も、よく見ると木であることがわかります。
木目は完全に消えず、その凹凸も感じられます。
もし複数の作品を並べてみる機会があれば、一枚一枚異なる木の表情も楽しんでほしいと思っています。
燈沁作品には、黒、グレー、木の色があります。
この三色は、最初からそれぞれに意味を決めていたわけではありません。
最初に「穏やかな炎のゆらぎ」を描いた作品に、
”『穏やかな日々』”というタイトルをつけました。
穏やかな日々。
そんな平凡なことも大切なもの。
そんな日々を望むことも、いいこと。
その作品を見つめながら、蝋削画で描いてきた「一人の人の心」というテーマと重ねていく中で、三色それぞれの意味が生まれてきました。
黒は、その人の心全体。
人の心には、自分自身でもすべてを理解できない部分があります。
だから、作品全体を覆う黒を、その人の心そのものとして捉えています。
グレーは、外から受けるもの。
不安や悩み、葛藤。
周囲からの言葉や、さまざまな影響。
蝋を飛ばしつけることで生まれる、荒々しく激しい表情が、そうした外から受けるものと重なりました。
そして、木の色は、炎のゆらぎ として浮かび上がる、その人自身の望むあり方を表しています。
木の色は、黒やグレーのように、決められた一つの色ではありません。
だから「木の色」として、1つの色として捉えています。
黒をベースにグレーが重なっていても、その中から木の色は炎のゆらぎ となって浮かび上がります。
外からさまざまなものを受けても、その人自身が望むあり方まで消えてしまうわけではない。
本当の心は、誰にも染められることはない。
そこに存在している。
それが、私が燈沁の三色に込めているものです。
燈沁の作品には、タイトルとサブタイトルを添えています。
炎のゆらぎを描くとき、最初に「穏やかなゆらぎ」「激しいゆらぎ」など、大まかなイメージを思い浮かべてから筆を取ります。
けれど、描き始めると、あとは心地よく感じるリズムに身を任せるように、筆を動かしていきます。
そして、描き終えた作品を見ながら、私はそこに何を感じたのかを考え、タイトルを付けています。
だから、タイトルは作品を描く前に決めているものではありません。
私がその炎のゆらぎを見て、感じたことを言葉にしたものです。
作品をどう感じるかは、見る人の自由だと思っています。
ただ、「これは何を表しているんだろう」と思ったときに、私が感じたことを一つの見方として添えておきたい。
タイトルとサブタイトルをみて、もう一度作品を眺めてみる。
「そうなんだ」と感じる人もいれば、
「私はこう感じる」と思う人もいる。
そんなふうに、それぞれの感覚で作品を感じてもらえたら嬉しいと思っています。
燈沁の作品は、A6(はがき)A5・B5・A4の4つのサイズで制作しています。
このサイズを選んだのには、理由があります。
私はもともと、F・S・M・Pなど、アート作品で使われるサイズ表記を見ても、実際にどのくらいの大きさなのか、あまりイメージできませんでした。
作品そのものを見ているときにはちょうどよく感じても、実際に部屋に飾ってみたら、
「思っていたより大きい」
「思っていたより小さい」
となることもあります。
それは、家具などを選ぶときにもあることだと思います。
だから燈沁では、誰もが普段から目にしていて、大きさをイメージしやすいA6(はがき)・A5・B5・A4という用紙サイズを選びました。
そして、このサイズ感は、燈沁の作品を描き始めたときから決めています。
本当の心を見つめるきっかけを、そっと添える。
そのためには、作品も日常の中で身近な存在であってほしいと思っています。
目に入る場所に置ける。
手が届く距離に置ける。
ちょっとしたスペースにも飾ることができる。
そんな、日常に置いておける大きさにしたかったのです。
また、飾る場所や、その人が飾りたいと思う大きさも人それぞれです。
だから、A6(はがき)・A5・B5・A4の4つのサイズから、自分の暮らしに合うものを選んでもらえるようにしています。
燈沁は、人が自分の「本当の心」を見つめるきっかけを、そっと灯す炎のゆらぎを描く作品です。
その炎のゆらぎを描くうえで、蝋削画は欠かせない表現になっています。
蝋を手作りの刷毛で描くことで、なめらかな曲線が生まれます。
一本一本のゆらぎを重ねていくことで、やがて一つの炎のゆらぎとなり、素材の色として浮かび上がる。
絵の具などで同じように素材の色を残そうとすれば、残したい部分を囲うように描き、輪郭を作っていくことになります。
けれど、蝋削画では、炎の輪郭を描いているのではなく、一本一本のゆらぎを描くことで、結果として炎の形が生まれます。
そこが、私にとって大きな違いです。
そして、制作の最後に蝋を削ることで、黒く覆われていた部分から描いた形が浮かび上がってくる。
その姿は、私が大切にしている、
「本当の心は、誰にも染められることはない。
そこに存在している。」
という考えにもつながっています。
木製パネルを使うことで、さらに木そのものが持つ色や木目が炎の中に現れます。
それは、木がもともと持っているもの。
人にも、その人自身が持っている、望むあり方があります。
だから私は、木の色や木目が現れることにも、その人の「本当の心」が現れる姿を重ねています。
蝋削画は、単に炎のゆらぎを表現するための技法ではありません。
蝋で描くこと。
蝋で覆うこと。
そして、削ることで現れること。
その一つひとつが、燈沁で伝えたいこととつながっています。
だから、たとえ別の画材や技法で、同じような見た目を作ることができたとしても、私は蝋削画を選びます。
見た目だけなら、他の方法でも再現できるかもしれない。
けれど、蝋削画で生まれる過程まで含めて、燈沁という作品だからです。
私にとって蝋削画は、燈沁を描くための「手段」ではなく、
燈沁そのものを形にするための表現なのです。
蝋削画は、私が自分だけの表現を探す中で生まれた技法です。
もともとは、蝋で描く書道との出会いから、蝋を使った表現を始めました。
蝋で描いた部分が色を防ぐことで、下にあるものが現れる。
その「残して見せる」という表現に惹かれ、ろうけつ染めや紅型染めなど、さまざまな防染の技法にも触れました。
そして、自分でも蝋を使った新しい表現を作れないかと考える中で、蝋をどう取り除くかを考えました。
そこで浮かんだのが、
”「削る」”という方法でした。
蝋を削り落とす。
「これは、自分だけの技法になる。」
そう思い、既存の蝋を使った技法を調べました。
蝋を使ったさまざまな技法がありましたが、自分が考えた「蝋で描き、色を防ぎ、墨で覆い、最後に蝋を削り落とす」という方法と一致するものはありませんでした。
そこで、この技法を”「蝋削画」”と名付けました。
「これだ。これが自分の技法だ。」
そう感じた瞬間でした。
そしてこの技法には、もう一つ面白いことがあります。
普通の絵では、最初に描いたものは、その上に色を重ねることで次第に隠れていきます。
けれど蝋削画では、最初に蝋で描いた部分が、最後には一番明るく現れる。
蝋で描いた筆跡や細やかな線、飛ばしたり垂らしたりした表現も、蝋を削ることで現れてくる。
その、一般的な絵と少し違う表現も、蝋削画の面白さの1つだと感じています。
作品とは、なんだろう。
私は、作品は「自分を表現するもの」だとは考えていません。
自分の考えをそのまま作品にして、それを誰かに伝えることに、どれだけ意味があるのだろう。
そう思ったことが、私自身の「作品をつくる意味」を考えるきっかけになりました。
人は自分自身には興味があっても、他人が何を考えているのかには、それほど興味があるわけではない。
だから私は、自分の考えをそのまま伝えることよりも、作品を見た人自身の中に、何かが生まれることに意味があるのではないかと思うようになりました。
作品を見て、
「なんだか好きだ」
「なぜか気になる」
「これは何を表しているんだろう」
そんなふうに、少しでも心が動く。
そこから、もう一度作品を見たり、自分自身のことを考えたりする。
そんな時間が生まれることに、作品の意味があるのではないかと思っています。
私にとって作品は、何かを与えるものではなく、何かが生まれるきっかけです。
作家は、何をする人なのだろう。
私にとって作家とは、作品を通して、誰かの心に小さなきっかけを添える人です。
大きく言えば、社会を少しでもよくする。
小さく言えば、一人の心にそっと寄り添い、その人が社会の中で少しでも生きやすくなる。
そのためのきっかけを、作品を通してそっと添える。
それが、私が作品を作る意味であり、作家としての役割だと考えています。
だから私は、作品をつくり、できるだけ多くの人に届けたいと思っています。
ただ、作品を通して何かを教えたいわけではありません。
私ができるのは、自分が感じたことや、心の中にあるものを作品として表現すること。
そして、その作品が誰かの心に触れ、その人自身の中で何かが動き出すきっかけになることを願って、作品をつくり続けることです。
作品の感じ方は、自由でいい。
作品をどう感じるのかは、その人自身の自由です。
同じ作品を見ても、感じることは人によって違います。
私が作品に込めた想いと違うものを感じてもいい。
タイトルから何かを感じてもいいし、タイトルを知らずに感じたことを、そのまま大切にしてもいい。
作品を見て、
「何も感じなかった」
という思うことだって、その人の感じ方だと思っています。
私は、作品を見た人に「こう感じてほしい」と決めているわけではありません。
作品を通して、その人自身の感覚に触れる時間が生まれたら。
その感じたことが、その人の体験になれば、それでいいと思っています。
私は、「フィーリング」を大切にしています。
私は、何かをするときに「努力している」と思うことが好きではありません。
「努力」自体が悪いわけではありません。
ただ、自分自身で「努力している」と言うことに抵抗があります。
頑張って自分を奮い立たせたり、苦労していると感じながら取り組む。
そのもっと前にあることを、私は大切にしています。
「なんとなく好き」
「なんだか心地よい」
「ちょっと気になる」
という感覚、少し楽しい感覚です。
私自身の制作も、そこから始まることが多くあります。
炎のような形に惹かれたこと。
ゆらぎを描いていて心地よいと感じたこと。
その理由を後から考えて、1/fゆらぎについて知ったこと。
感じたことから始まり、そこから続いていく。
私にとって、アートもそんなふうに始まってもいいものだと思っています。
アートを、特別なものにしたくない。
アートというと、少し難しく感じることがあります。
私自身も、自分には無縁のものだと思っていました。
美術館やギャラリーに行って、知識を持って作品を見る。
もちろん、そういう楽しみ方も素敵です。
でも、私はアートが、それだけのものではないと思います。
部屋に作品があって、ふと目に入る。
なんとなく眺める。
少し心地よい。
その日の気分によって、いつもとは違って見える。
それだけでもいいと思っています。
だから燈沁作品も、日常の中に置いてもらえることを大切にしています。
特別な時間をつくって作品を見るのではなく、
いつも暮らしの中に、作品との時間がそっと存在している。
そんな距離感が、私には心地よいのです。
私にとって、アートとは。
私にとってアートは、作者の想いをそのまま受け取ってもらうためのものではありません。
作品を通して、誰かの心が少し動く。
何かを感じる。
立ち止まる。
自分自身のことを少し考える。
そんな時間が生まれる。
そして、その先に何を感じるのかは、その人自身のものです。
私は、作品を通して誰かの感じ方を決めるのではなく、その人自身の感覚が動き出すきっかけをつくりたい。
その小さなきっかけが誰かの日々に寄り添い、その人が少しでも自分らしく、生きやすくなることにつながるのなら。
それは、作品が社会に存在する意味の1つにもなるのではないかと思っています。
作品は、何かを与えるものではなく、何かが生まれるためのきっかけ。
私は、そんな作品をつくっていきたいと思っています。